獣の奏者エリン 第五十話「獣の奏者」

ネタバレているのでたたみます。
この記事書いているときにも「闘蛇」「王獣」「真王」が候補に上がって変換できた。グーグルさんの底力はどこまで果てしないのか!


一年かかったアニメ版の最終回。闘蛇から母を助けられなかったエリンが、戦場で闘蛇によって命の危機に立たされたとき、それまで彼女が育ててきた王獣のリランが彼女の命を救う、という構図がよかったです。長い時間をかけて彼女は「親」になっていたんだな。親になっていたんだけれど、運命は円環をえがいて繰り返す、とならないところが大変いい。真王と大公が手を取り合ってもまだまだリョザ神王国の安定は遠いのだろうけど(サイ・ガムルとかまだ野放し状態だし)、それでも運命は円環でなく螺旋をえがいてちょっとだけ前進した。ほんのちょっとだけれど良い方向に向かおうとしている。
この「ほんのちょっと、でも良い方向に」感は、50話分の時間をかけたからこそ出せたのだと思います。何度も繰り返される母の死のイメージとか、キャラの心理を反映した自然の描写とか、事実の重み、時間の重みによって人はゆっくりと進まざるをえないがそれでも進んでいく、という感じに説得力があった。
時間のスパンが長いことで、ヌックとモックみたいな、「無力だけれどとにかくエリンの味方」という、実際にはなんの力もないけど心強い善意の存在(そういえば最初は小悪党だったなーこいつら)が輝いたんだと思う。エリンに辛い状況が降りかかっても、ヌックさんとモックさんは味方だから大丈夫…! みたいな安心感。まあ彼らには状況を動かすためのなんの力もないんで、26話展開だとたぶんまっさきにボツにされてしまうポジションなのですが、結局人生で助けになるのは、力よりもそういう無力な善意の気がする。そういう、力なき力についても語り込まれていたので、50話展開はよかったと思います。最終話にも出てきて欲しかったなー。多分このふたりはアニメのオリジナルキャラだから余計に。
キャラで思い出したんだけれど、後日談のパートでキリクのその後が描写されて、イアルのその後が描写されなかったのはなぜなんだろうか? やっぱりエリンの夫、ジェシの父になるだろうことが確定しているから、描く必要度は雪の野でぶっ倒れたままのキリクよりは低いということになったのかなー。あとワダンが最終話に出てくるとは思わなかったよ!

わたしはアケ村編の終わりあたりでいったん原作を開いたのだけれど、しょっぱなから「闘蛇の裁き」がはじまるので、アニメでは原作にないことを掘り下げようとしているな、と思って、これは原作を読んでしまわない方がいいかと思って読まないできたので、これから原作を読みます。楽しみだ。

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

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獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

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