SAMURAI7 第十五話「ずぶ濡れ!」

  • カンベエ殿の助けを断って、崖を自力でよじのぼるキララ殿。負い目があるんだろうな。でもああいうときは頼ってもいい気がするんだけれど。
  • 霧の中からの射撃に斥候を買って出るキュウゾウ殿。……たしかに適任とはいえ、赤金のカラーリングは霧の中でも目立つと思うのだが。そして心配そうなキララ殿にフォローを入れるカンベエ殿。まめな人です。
  • 「われら皆、傷ついておる」……野伏せり哀歌。そうだよなあ、あれだけやられてダメージが簡単にすむはずないものな。本陣本殿が壊滅してしまった今、メンテナンスとか充電(か蓄電筒の交換)とかできないし、機械仕掛けの身にとってはもう後がない。だからあとは意地を立てとおすしかないのだ。
  • カンベエ殿の血の染みた包帯を手に祈るキララ殿。しかしおばば様は昔お侍となにかあったんだろうか。
  • あの太湖石みたいのがお社のご神体だと思っていたんだけど、今回のようすを見ると、水分りの神様(でいいのか)というのは独立した水の神様ではなくて、祖霊の集合体みたいなものなんだろうか。祀りあげられるというよりはカジュアルな存在のようだし。
  • 「都」は戦後にできた商人の町。おわー。この世界にはそれまで首都的なものが存在しなかったのかー。こりゃ日本の戦国時代とはよほどに違うなあ。統合の象徴(「約束の地」としての京および御輿としての帝)が存在しなかったってことでしょ? 「あがり」がないんだったら、大戦って物凄い泥沼だったのかしらん。
  • 日差しがちょっと秋の感じですね。キクチヨいい奴だなー。しかし彼はどこまで生身が残ってるのか。
  • 蛍飯を眉ひとつ動かさずにすするカンベエ殿と、決死の覚悟っ面ですするシチロージ殿。なんつうか、カンベエ殿のこれまでの放浪人生がすけて見えますな(笑)。いや何でも喰えるタフネスは人生において重要ですよ? 重要ですとも!
  • 「たらふく喰えよ! 腹いっぱい喰って、大きくなれ!」……囲炉裏ばたのシーンは、シチロージ殿とカンベエ殿の人生に対するスタンスの違いがくっきりと見えたシーンだと思う。シチロージ殿は自分のことをまだ人間に立ち混じって生きてゆける存在だと思っているけど、カンベエ殿はもうそうではないんだな。こどもらの無邪気な「侍になる」宣言にもガチで「おじさんみたいになってもいいのか!」だもんなあ。あれは本当に声も姿も絶望した老いた人のものだった。なにがあったのかはまだ判らないけれど、カンベエ殿がひとりで旅していたのは、自分自身を追放の刑に処していたのかとも思った。
  • あと、お侍七人衆の中で、戦後一番変わったのがシチロージ殿だと思うわけです。生来の性格も大きくあずかってるのだろうけど、片腕をなくして、ユキノさんに拾われて、蛍屋で用心棒兼たいこもちの生活をすごして、大勢の侍でない人びとの戦後を見てきた経験が、彼を戦場の記憶で駆動されるのみの生き物としての人生から救っているような気がする。
  • カツシロウ……自分とははるかにかけ離れたものに憧れるのは人の常とは云うけれど、カンベエ殿といいキュウゾウ殿といい、つくづく今の世ではツブしの効かない人物にばっかりほれこんでますな。なんか今の彼では、非常時を前にして成長できないばかりか、急成長を強いられるこの非常事態は有害なのではないかと思えてならぬ。もっとゆっくりと成長したほうがいい人格なのじゃないかなあ。今のところ彼は「見取り稽古」フェイズ以前の、「憧れの人の完全コピー」(批判検討視点なし)フェイズにとどまっているみたいなので。
  • あと、カツシロウの中ではまだたぶん「侍」って英雄的な何者かなんだなーと思った。武力の行使者にして無力なものの守護者、さらには指導者みたいな、人々の上に立つ、完璧に近い存在。でもかつてカンベエ殿が「儂らは稲穂に群がる野伏せりをはらう案山子だ」と云うように、侍は武力のみを必要とされている、いうなれば必要悪にすぎないんだよね。ここらのカルチャーギャップはどうなっていくのか。
  • ヘイハチ殿の語り。「地獄は一定すみかぞかし」というフレーズ*1を思い出した。戦さ場の先達としていいこと云ってんだからカツシロウはちゃんと聴けよな。どうも思い込んだら周りが見えなくなる人だなー。
  • ところでキュウゾウ殿は銃を担いで両手ふさがってんのに脚力だけで崖を登ってきたんですか。……あなたは(あいかわらず)面白い人です!
  • 「そんなすごい奴が、なんでマロの狗なんかやってたんだよ?」……キクチヨ殿的確だなー。キュウゾウ殿には対外インタフェイス的におっそろしく欠けているところがあって、商人の用心棒に身を落としていた(昔気質の侍からしたらあれは堕落でしょう)のもたぶんその所為だろうということが判っている。対してカツシロウは、何か今のところ、キュウゾウ殿すごい強い→パーフェクトな人に違いないよ! みたいな盲目状態になってますな。かえすがえすもヒョーゴ殿が亡くなったことが悔やまれる。
  • ていうか、キュウゾウ殿の凄腕を認めながらも人格的にバランスを欠いたダメ人間の一種だと知っており、なおかつ「その行動はおかしい」とダメ出しできた人物は、作品中ではヒョーゴ殿くらいだったんじゃないかと思うからです。お侍の皆(つうか彼をスカウトしたカンベエ殿、か)は、お互い戦さバカのダメ人間(四話のチャンバラとか、類友的で超楽しそうだったしな)ということで判りあって許してしまっているのに加え、今は戦時なのでキュウゾウ殿の天稟を存分に発揮できる状況にあり、色々ダメっぽいところは目立たなくなっている。まあヒョーゴ殿は戦後の世の中に適応できるだけの常識を持ち合わせていたがゆえに、ちゃんと勤め人生活に適応でき、結果キュウゾウ殿と道をたがえる結末になったとは判っているのですが。あとヒョーゴ殿が一行に加わったら「SAMURAI8」だものなー。あ、なにやらめでたそうではあるなSAMURAI8。末広がり。
  • 森の中でキララ殿に愚痴るカツシロウ。さて、カツシロウの目は今までわりと光が入った目だったと思うのだけど、このシーンでは瞳が昏い。目に平生から光がなくなりつつあるのかな。つまり侍の目に一歩近づいたというか、生死の境を見渡す目になりつつあるというか。
  • 予備の刀を地面に突き刺しておくのはかっこいいですね。絵面的にかっこいいけど、なによりプラグマティックで良い。
  • 前回と今回と見てて思ったんだけど、機械化したお侍の人たちは切ないなあ。大戦中は機械に体を取り替えたほうがいろいろ有利だと考えた末での選択だったんだろうけど、今じゃ民間に潜ることもできず、野伏せりにならざるをえない。立派な人格者もいるんだろうに、体が機械だというだけで世界に居場所がない。人間の体さえ保っていれば、カンベエ殿みたいに「死びとの眼」を持っていてもなんとか普通人のふりをしてやっていけるのに。
  • それから、機械化侍でも、雷電・紅蜘蛛といった巨大系と、飛跳兎・木菟といった等身大系がいるけれど、あれはどういう経緯でその機体を選ぶことになったんだろうか。等身大系の人たちはやっぱり階級が低かったのかなあ。
  • もうひとつ機械化侍について引っぱるよ。たしか第一話で虹雅渓の大通りを行きかう人々の中に、等身大の機械のお侍がいたんだよね。泰西風のプレートメイルみたいなボディの。かれとかキクチヨ殿みたいなカスタムメイドのボディを持っている人は、人間に立ち混じっても大丈夫で、飛跳兎・木菟みたいな統一規格品のボディを持っている人は野伏せりにならざるをえなかった、この違いはどこにあったんだろう。

 次回、嵐の中で勝利を手にするのは果たして野伏せりか侍か? 「死す!」…………ってエエエー?!

*1:元ネタは『歎異抄 (岩波文庫 青318-2)』。原文をググっていただければわかると思うのですが、これは逆説的な意味を持つフレーズです。でも私はまだ分別のなかったころに『地獄は一定すみかぞかし―小説 暁烏敏 (新潮文庫)』のタイトルだけ見て、字義通りにとって非常な感銘を受けた(莫迦め)ので、いまだにこの言葉は「ああ、ここはやっぱり地獄であったか」という妙な安心感を抱かせる言葉として機能するのです。浄土真宗の信徒の方にはかえすがえすも申し訳ないことです<自分もそうなんだが。